「ひー、ふー、みー、よー」は高句麗語から?

2014年12月19日 23:20

高句麗と日本の意外な近さ    魚本公博

 

歴史好きの「歴じい」として、今回は朝鮮・平壌在住の日本人として古代日朝関係の話しを。

 平壌は高句麗の首都。その高句麗と日本の意外な近さ。例えば、日本語の数字「ひー、ふー、みー、よー」はどうも高句麗語らしい。朝鮮では古代の記録は漢文で書かれたものと、漢字の音を借用した「吏読」で書かれたものがあるが、漢文では一、二、三と表記されるだけであり、当時、高句麗でどのような数字が使われ発音されていたかは吏読でしか分からない。ところが吏読の文献は余り残っておらず断片的なことしか分からず、数字では、三を密(ミッ)、七を那難(ナナン)、十を蔵(ツォー)くらい。しかし、これはミッツ、ナナツ、トーなわけで、これから類推して「ひーふーみー」という数字全体が高句麗語らしいというわけです。

 どういう経路で入ったかというと、古代日本は百済との関係が深く、その百済は、その建国神話などを見ても高句麗から別れてできた国なので、百済地域(朝鮮の南西部)からの移住民がもたらしたものと考えられます。

朝鮮の歴史学者チョ・ヘスンさんは「百済史研究」という著書の中で、馬韓の一小国であった百済が台頭して周辺の馬韓系小国を統合していく過程で、それを快く思わない勢力が日本に新天地を求めて移住した。その一つが卑離国=卑弥国であり、卑弥呼はその集団の司祭的な長だったのではないかと述べています。こうした経緯から日本に高句麗語が入ったのかもしれません。ちなみに味噌も高句麗語です。

 高句麗が日本と正式に国交関係を結ぶのは、570年。そこで聖徳太子の仏教の師になったのが高句麗僧の慧慈(えじ)、太子の仏教理解に多大の貢献をしたことが知られています。ただ当時の僧は「政治僧」であり、何らかの外交使命を帯びていることも見なければならいと思います。当時は中国を統一した随が高句麗への圧力を強めていた時。当然、それに対するための倭との連携が目的でしょう。実際、聖徳太子は隋とそれに追随する新羅牽制のため弟の久米皇子に指揮させた二万の大軍を筑紫に集結させ、朝鮮に送ろうとします(久米皇子死亡のため中止)。

随は高句麗攻撃に失敗して滅亡しますが次ぎの唐も高句麗攻撃企図を露わに。これに対し徹底抗戦派の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)は、屈服派の栄留王たち200名余りを殺し臨戦体制を固めます。この事件が起きたのが642年。そして、これに連動したかのように百済、新羅でも政変が起き、日本では645年の大化改新が起きます。

 以上を見ると大化改新は、単に日本国内での蘇我氏の専横に対する王権強化のためというものではなく、朝鮮がやられれば日本も危ないという危機感の下で唐の侵略に対する体制作りのためだったのではないかと思います。実際、百済敗亡後、中大兄皇子(後の天智天皇)は、日本滞在の百済の皇子・扶余豊を5000の兵をつけて送還しその後2万7000、さらに万余の救援軍を送ります。何故、これほどまでの肩入れをしたのか。様々な見方がありますが、いずれにしても、当時、日本と朝鮮は非常に深い関係にあり、唐の覇権的な秩序作り(册封体制)に反対して自主独立を守る上でも共通の利害関係を持っていたということでしょう。

そして現在、アジアでの覇権回復に躍起となっている米国の動き。この地域での自主・独立、そのための連帯がいかなる形で求められているのか。ここは考えどきです。