新年の辞

2015年05月02日 03:31

時代認識を問う。今はグローバル時代なのか?    小西隆裕

 元旦の朝日新聞社説は、「グローバル時代の歴史」と題しながら、グローバル時代における歴史の見方について取り上げていた。朝日がなぜこのテーマを元旦社説に取り上げたかはさておいて、ここでは「グローバル時代」という時代認識について考えてみたい。
 「社説」では、今がグローバル時代だとする根拠として、ヒト、モノ、カネ、情報が軽々と大量に国境を超え、社会が抱える問題も、金融危機、地球温暖化、感染症、等々と国境では区切れなくなっていることを挙げていた。確かに、今日、こうした国境を超える事象が多くなっているのは事実だ。だが、それをもって時代を規定するのは少し一面的なのではないか。なぜならその一方で、経済や財政の主権を制限するEUに反対しそこからの離脱を求めるヨーロッパでの動きや世界的に広がる民族独立を求める闘いの新たな高揚など、国の主権、自主権を要求するこれまでになかった新しい気運が生まれてきているのも事実だからだ。 この相矛盾する事象を見ながら思うのは、時代認識の基準に関する問題だ。その時代がどういう時代なのかは何によって決まるのか。それは当然、個別的な運動ではなく、時代全体を動かしている主体とその運動によって決まる。では今日、それは何か。国と民族を否定し、その主権、自主権を認めない世界のグローバル化とその真逆に、主権、自主権を求めて闘う世界の自主化、この根本的に矛盾する二つの大きな気運、運動の主体は、当然それぞれ相異なっている。前者の主体が世界を股に掛け支配する多国籍超巨大独占体や米国など覇権勢力だとすれば、後者のそれは各国各民族、広範な国民大衆、自主勢力だ。そしてこの両者は今世界中で対立・衝突し闘っている。
 こうして見た時、問題ははっきりしている。覇権勢力と自主勢力、今、どちらが時代を動かし世界を動かしているのかということだ。そこで想起すべきは、もはや今日、覇権が通用しなくなっているという事実だ。覇権国家の一存で世界が動かされる時代はすでに久しい以前に過ぎ去っている。実際、米国は世界中の紛争という紛争に首を突っ込み関与し、リーダーシップを発揮しようとあがいてきた。しかし、何一つ、米国の思い通りになったものはない。彼らが関与した紛争という紛争は、イラク、アフガンを見るまでもなく、リビアでもエジプトでも、例外なく皆泥沼化していっている。これは何を意味しているか。それは、今、世界を動かし時代を動かしている主体は、覇権勢力ではなく、その専横を許さない自主勢力だということだ。

 

 今日、世界にグローバル化現象はいまだ広範に存在している。しかし、それが世界の主傾向ではない。それは明らかに限界に突き当たり、その矛盾が主権、自主権を求める自主勢力の闘いや金融危機などとして広く深く露呈していっている。なのに、朝日新聞はなぜ「グローバル時代」をテーマに元旦の社説を掲載したのか。それは、2015年、日米の軍事的経済的一体化と日米共同で「戦争する日本」の発動を謀る米国と安倍政権の政治を「グローバル時代」の名の下に正当化するものに他ならないと思う。それは、マスコミとしての死を意味しているのではないだろうか。

 
明けましておめでとうございます。
 私たちの年越しは、そばを食べ「紅白歌合戦」を見ることが一番の楽しみでしたが、数年前から、これが放送中止。海外日本人には寂しいことです。元旦は亡き仲間の命日、彼を思いながらささやかな新年会で鍋を囲みました。
 朝鮮のことを少し。2015年の午前零時、ピョンヤン市内では除夜の鐘とともに一斉に花火が舞い市民の歓声とともに新しい年が明けました。11日は今年最初の体育の日とかで、どこの広場でも催しや職場対抗の競技で賑わっていました。おじさんもおばさんも帽子をかぶって白い息を吐きながら競技に熱中する姿からは、「人権問題」で攻撃してくる米国の悪さなど、叩きつぶしてやる、という朝鮮の人々の活力と気概を感じましたね。
 私たちも負けてはいられません。今年を「よど号問題見直し」の決戦の年としなければということです。皆さん、「よど号問題」にご理解を。今年もよろしくお願いします。 
                 森順子